長崎から横浜へ 飛鳥Ⅱのタイムトラベル |
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平成の30年間、日本のレジャークルーズをけん引してきた飛鳥、そして飛鳥Ⅱ。両船揺籃(ようらん)の地・長崎から現在の母港・横浜への船旅は、そのまま日本のレジャークルーズの歴史をたどるタイムトラベルでもあった。 写真 = 松井進 文 = 金丸知好 |
生誕の地・長崎に停泊する飛鳥Ⅱ
乗船前のツアーで佐世保を訪ね、九十九島を180度見渡せる展望スポット「展海峰」へ
幡野・元キャプテンが語る 長崎と飛鳥のエピソード
「いろんな船がやってくる長崎港ですが、やっぱり飛鳥が来るのが一番うれしいですよ。」
女性バスガイドさんが、ツアー客に語りかける。羽田空港を発ち、翌日、飛鳥Ⅱの長崎~横浜クルーズに乗船するまでの「長崎・横浜クルーズと光の王国ハウステンボス・世界遺産 大浦天主堂」ツアーでのひとこまだ。
ツアー参加者はドイツのツヴィンガー宮殿を模した有田ポーセリンパーク、九十九島や遠く五島列島を一望する展海峰などを観光。夜はハウステンボスに隣接するホテルヨーロッパに宿泊し、世界最大1300万球の電球によるライトアップを誇る「光の王国」の夜景を存分に楽しんだ。
それだけではない。ツアーには初代飛鳥のキャプテンを1995年から2003年までつとめた幡野保裕・第5代船長(現・アスカクラブ会長)が同行するという、特別な旅でもある。
そのハイライトは、三菱重工業長崎造船所史料館の訪問であった。入館すると威風堂々とした岩崎弥太郎の像が迎えてくれる。弥太郎が創業した日本郵船と三菱重工の関係は深い。それを示すように、両社の建造400隻記念のパネルがあった。その400隻のなかに、「クリスタル・ハーモニー」(現在の飛鳥Ⅱ)、「飛鳥」(初代)の名を見つけることができる。
横浜~シアトル航路で活躍してきた「氷川丸」が1961年に引退し、戦前から続いてきた客船事業から一時撤退した日本郵船。その後、欧米ではレジャークルーズの人気が爆発的に高まった。1980年代末、この機を逃すまいと日本郵船はレジャークルーズへの参入を決める。
だが、船をどうするか?日本で唯一、客船建造ノウハウを持っているとされた三菱重工ですら、レジャー客船は未知の分野であった。
そこで日本郵船は、一度は欧州で新造船の見積もりを取ることを決めた。ところが、それを知った当時の三菱重工社長は、日本郵船社長をこう問い詰めたという。
「岩崎弥太郎は海運会社をつくるために日本郵船をお創りになった。船を持つと修理が必要になるということで、一年遅れて三菱重工を造られた。(中略)その海運会社がヨーロッパの造船所に船を造らせるなんて、たとえ客船でも発注したとなると、岩崎弥太郎は墓の中から出てきますよ」(『輝きの航海 日本の客船とその時代』佐藤早苗著・時事通信社より)
この脅し(?)が効いたわけではなかろう。しかし、三菱重工の客船建造に対する並々ならぬ心意気を感じた日本郵船は、新船建造を同社に発注したのである。
両社は幾多の苦難を乗り越え、1990年にクリスタル・ハーモニーを完成させる。レジャークルーズの本場・米国向けだった。翌年、日本人向けの客船も同造船所で産声を上げた。飛鳥である。
2隻が生まれたのは、まさに史料館のある長崎造船所だ。館内には初代飛鳥のモデルシップや、クリスタル・ハーモニーに関する資料も展示されていた。
有田ポーセリンパークは宮殿内に、江戸~明治期の有田焼や古伊万里など貴重な陶磁器を展示している
飛鳥クルーズのドラマは いつも横浜が舞台だった
足かけ9年、飛鳥のキャプテンを務めた幡野さんにとって、長崎造船所はやはり思い入れの強い場所。
それだけに、展示資料をじっくり、そして静かに見ておられた。なお、幡野さんの飛鳥建造時の最初の仕事は、田村能里子さんがデッキ10に壁画『季の奏』を描くときのゴンドラ調整だったという。
数時間後の15時。岸壁で打ち鳴らされる太鼓の音とともに、飛鳥Ⅱは横浜に向けて長崎を出帆した。揺籃の地・長崎造船所に挨拶をするかのように汽笛を鳴らして。
思えば1990年6月23日、クリスタル・ハーモニーも初航海のため長崎から横浜へ向かった。その時、湾に面した沿道も、港を見下ろす鍋冠山の展望台も見送りの長崎市民で埋め尽くされたという。
あれから29年。女神大橋をくぐった、ドック明け直後の飛鳥Ⅱの真白な船体は西日に照らされ、美しく輝いていた。
長崎出港の翌日、幡野さんの船上トークショー「長崎生まれの飛鳥は幸運の船」が行われる。ギャラクシーラウンジは、ほぼ満席の盛況ぶりだ。
そのなかには「幡野さんに会うために、このクルーズに参加したんですよ!」という岡山県から参加の男性もいれば、幡野さんが飛鳥のキャプテンに就任した1995年からの「追っかけ」を自任し、今回も仕事の都合をなんとかつけて長野県から新幹線や電車を乗り継いで長崎に駆け付けたという熱烈ファンの女性も。
幡野さんは50分間の持ち時間で、飛鳥クルーズと長崎のかかわりなどについての秘話を披露。なかでも1999年、苦難の末に実現した米領ミッドウェー初寄港のエピソードが、非常に興味深かった。
幡野さんは決して饒舌ではない。だが、訥々とした語り口は、8時間にわたる投錨作業の末、ミッドウェー寄港を実現させた操船と同じく信念を感じさせる。同時に誠実な人柄を思わせた。それゆえに、引退した現在でも多くの人を引き付けているのだろう。
長崎出港時、女神大橋を通航。飛鳥生誕の地・三菱重工長崎造船所も船上から望めた
クルーズは好天にも恵まれた。最高気温が14度と、大寒直後とは思えぬ暖かさ。それは「飛鳥は幸運の船」を象徴する天候だった。
飛鳥竣工直前の1991年9月下旬、風速75メートルという超大型の台風19号が長崎を襲った。長崎造船所の大型クレーンや建屋の屋根もいくつも吹き飛ばされた。そして飛鳥に最も近いクレーンも倒壊した。ほんの数メートルずれていれば、クレーンが飛鳥を直撃していたという際どいものだった。
その後、無事デビューを果たした飛鳥は、「晴れの船。天候に恵まれた船」だった。飛鳥の強運は長崎で授かったのでは、ともいわれる。
今回、飛鳥クルーズの歴史をたどる記念的な船旅は、その幸運が宿ったかのような穏やかな航海であった。
新時代へつながる飛鳥の夢
青空を背景に富士が白く望める最終日の朝、横浜港が見えてきた。そこには氷川丸の姿もあった。
日本郵船は氷川丸の引退でいったん客船事業から撤退。30年近い空白をへてクリスタル・ハーモニーで客船の夢を再び追い始めた。1990年7月5日、ここ横浜からホノルルまでのファーストクルーズは満船で出航した。
米国に渡ったクリスタル・ハーモニーは客船の格付けで最高峰の評価を獲得するなど、世界トップクラスの客船に登りつめた。翌年デビューした飛鳥も、日本最高の客船の名をほしいままにした。
その飛鳥も2006年2月11日に引退。その15日後、日本人向けに改装されたクリスタル・ハーモニーが「飛鳥Ⅱ」と命名される。その母港は横浜となった。
飛鳥のふるさと・長崎から、現在の母港・横浜まで42時間。航海は終わったが、タイムトラベルには未来への続きがある。
「飛鳥Ⅲを三菱重工長崎で造れたら、夢がつながっていいのかな」
大さん橋に降り立ったとき、ふとそんなことを思った。新しい時代、飛鳥クルーズはどのような夢を紡いでくれるのだろうか。
■取材メモ
飛鳥Ⅱのふるさと 長崎・横浜クルーズ
日程:2019年1月22日(火)~24日(木)
コース:長崎~横浜
クルーズ代金:9万4000円(Kステート)~47万2000円(Sロイヤルスイート)
船名:飛鳥Ⅱ(郵船クルーズ)/総トン数:5万142トン/乗客定員:872人/乗組員数:約470人